邪神X 牛の正体は?|三つ目の異形と事故への関与を分けて考える

邪神X 牛の正体は?|三つ目の異形と事故への関与を分けて考える

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『邪神X』の牛は、山有志の里が特別に扱う信仰対象と結びついています。ただ、単話5巻まででは、普通の牛と三つ目の牛頭の異形がどういう関係なのか、事故を起こしたのが誰なのかは確定できません。私は、里に人間の都合だけでは説明しきれない存在がいる可能性を考えつつ、里の人々が行ったことを超常現象に預けない読み方をしたいです。

※以下はコミックシーモア単話1〜5巻のネタバレを含みます。6巻以降の展開や正体の解答を扱うものではありません。

牛をめぐって確認できる三つの層

単話1巻では、過去の集落取材映像に、牛の命や苦痛をめぐる話が置かれます。さらに、旅行中の牛の群れと、その後の落石事故が近接して描かれます。

単話2巻になると、牛が里の暮らしの中で神聖な存在として扱われていることが分かります。普通の家畜としての扱いとは違い、近づけない場所や里の印も示されます。

単話3巻では、牛の頭を持つ人型で三つ目の異形が現れます。4巻の儀式には、母性や牛を結びつける信仰上の表現があります。これらは牛と里の価値観をつなぐが、牛の群れの一頭が変身した過程まで描いたわけではありません。

私は、普通の牛、異形の存在、信仰上の意味という三つの層を分けて見たいです。同じ牛の特徴を持つからといって、すべてが同じ個体や同じ仕組みだと決めると、まだ描かれていないつながりを足してしまうからです。

本命は信仰と実在する異形が結びついている可能性

三つ目は日常の牛から外れる印に見える

牛の頭だけでも印象は強いが、三つ目という特徴が、日常の牛と違う存在だと感じさせます。私はここに、単なる動物への崇拝では終わらない気配を感じました。ゾッとする外見で、題名の「邪神」を連想したくなります。

ただ、外見の異常さは、そのまま能力の証明にはなりません。何ができるのか、どこまで動けるのか、普通の牛に命令するのかは別の問題です。異形がいるという材料から、里のすべての出来事を起こした存在だと広げることはできません。

牛の頭を持つ存在と儀式上の牛の表現が重なるので、私は両者が無関係というより、同じ信仰の中に置かれている可能性を本命にしています。ただし、里が恐ろしい存在へ合わせて信仰を作ったのか、信仰のために何かを作ったのか、順序までは分かりません。

その順序はかなり気になります。先に不可解な存在がいて人間が従ったのなら、里の人々が何を恐れているかが問題になります。先に人間の目的があって異形を利用しているのなら、誰が仕組みを作ったかへ問いが移ります。同じ見た目でも、責任の位置が変わるのが面白いです。

儀式の母性は優しいものとは限らない

4巻の儀式には、牛と母を結びつける表現があります。牛が食料になる動物としてだけでなく、命を与えたり養ったりする存在として受け取られているように感じます。

しかし、この母性の表現を、里が無条件に人を守る証拠にはできません。直前までの森下の扱いと合わせると、養う相手と罰する相手を分ける価値観があるように見えます。守られる共同体へ入れば安心で、外にいる人間は別の側へ置かれるのかもしれません。

5巻の和子の言葉も考えると、母のように受け入れるという発想が、本人の拒絶より上に置かれる危うさを感じます。もっとも、和子個人の行為が里の全員の規則だとまでは確定できません。それでも、世話をする側が相手の意思を決めてよいと考えるなら、養うという言葉はしんどい響きに変わります。

私は、信仰に優しい言葉が使われていることが、むしろ怖かったです。命を大切にする表現があっても、誰の命をどう扱うかの線引きが別なら、救いと暴力は同じ場所に置かれてしまいます。牛が善か悪かを一言で決めるより、その線引きを誰が行うのかを見たくなります。

バス事故を牛が起こしたとはまだ断定できない

単話1巻で牛の群れと落石が続くため、事故への関与を疑いたくなります。演出としてつながりを感じさせることは確かだと思います。ただ、牛が岩を動かした過程や、里の誰かが指示した場面は確認できません。

ここを、事故の原因が牛だという確定情報にすると、接近した描写と実際の因果関係を混同してしまいます。牛が異変を知っていた可能性、事故を起こした側だった可能性、そこにいたことが後の信仰を予告するだけの可能性は、まだ比べる余地があります。

里が事故の後に社員を迎え入れたことも、事故前から計画していた証明ではありません。偶然来た人々を利用した場合でも、保護と定住の提案は成立します。迎える段取りがよいからという理由だけで、落石まで仕掛けたと逆算するのは早いです。

私は事故が完全な偶然だったら、かえって里の不気味さが増すとも感じます。特別に狙った相手でなくても、来た人を帰さない仕組みがあるなら、同じ場所へ迷い込む誰にでも危険があります。計画的な犯人という答えだけが、怖い答えではないんだよな。

本命仮説の弱点と別の可能性

仮面や装置という説明は排除しきれない

三つ目の異形が見えることと、それが人間とは別の生命だと証明されることは同じではありません。仮面、衣装、仕掛けといった説明を、この範囲だけで完全に排除する材料は足りません。

私の本命は実在する異形と信仰が結びつく可能性だが、その弱点は、正体を見分ける過程が確認できていないことにあります。顔を外す場面、普通の牛から変わる場面、人間の動きでは説明できない明確な能力などがあれば、判断は進むでしょう。

とはいえ、人間の仕掛けだったなら怖くない、とは思いません。信仰に合わせた姿で人を罰しているなら、人間が恐怖を作って利用していることになります。正体が超常的でも人工的でも、社員へ及ぶ危険の重さが急になくなるわけではありません。

冒頭の声は証言の枠を越えない

冒頭の取材映像には、牛の苦痛をめぐる学生の話があります。しかし、本人が声を聞いたと話すことと、牛が人間の言葉で語ったと客観的に確定することは分けたいです。

この証言をそのまま超常現象の証明にしてしまうと、物語が残した不確かさが消えてしまいます。取材した人が何を経験し、どのように受け取ったのか。そこには本人の解釈も含まれる可能性があります。

私はこの古い映像の入り口が好きです。現在の社員の危機だけではなく、過去にも誰かが里へ目を向けた気配があります。ただ、その学生のその後や里との関係は、未確認のまま結論へ組み込まない方が面白さを保てると思います。

正体が分かっても人間側の行為は残る

森下が追い詰められる過程には、里の人々が関わっています。異形が何者かにかかわらず、その事実を消すことはできません。神がいるから従ったという説明が後に出ても、人がどう動いたかは別に考えたいです。

この点が、私は一番しんどいです。怪物だけから逃げればよいなら、危険な相手を見分ける目印があります。ところが里では、食事や住まいを用意する人も、秘密を守る側へ回り得ます。誰が味方かを外見だけで判断できません。

牛の正体を知りたい気持ちは強いです。でも、謎の名前が分かっただけで拓たちが助かるとは限りません。普通の牛、三つ目の異形、里の信仰、そして人間の選択。その関係が具体的に見えて初めて、避けるべき危険も整理できるはずです。

今は、異形と信仰が結びつく可能性を本命に置きつつ、事故への関与や正体そのものは未確定として読むのが妥当だと思います。答えを急いで牛へ全部の責任を背負わせるより、里の人々が何を知り、何を選んだかまで見たいです。私はその方が、この作品の嫌な余韻を強く感じます。

何が牛を特別にしているのか? その疑問を持ち続けて読みたいです。形だけが異常なのか、里の人間関係まで変える力があるのかで、怖さの受け止め方は変わります。私は、名前が分かったときより、普通の住人がその存在のために何を選ぶかが分かったときの方が、強く揺さぶられそうな気がしています。

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